通っている酒亭に幾組かの老夫婦が来る。その一組の亭主がある夜、私に聞いた。「江戸時代に理想的な老夫婦がおりましたか?」。こっちの仕事は客たちにバレているので、正直に答えた。「いますよ。たとえば画家の池大雅とそのカアちゃん。毎晩二人で三味線と琴を奏で歌ってました。でも老夫婦じゃねえな」。私は頭の中の引き出しをかき回した。

すぐ出てきた。「います、上田秋成とその妻です。秋成は作家で『雨月物語』などを書いてます」「ああ、『雨月物語』は若い頃映画で見ました。たしか溝口健二監督で森雅之が主演でした。怪談ですね。で、どんな夫婦生活を?」。私は語った。「秋成は実父母不明、養父母は嶋屋という裕福な大坂商人。成人すると家業を嫌って典型的な道楽息子になった。しかし養父母は放っておいた」。

実をいうとこういう話は難しい。私には語りたい話の山(モチーフ)がある。しかし山だけ話しても相手は理解できない。一応その人物の略歴を語り、私が話す山がなぜ山なのかを察する背景を知ってもらわなければならない。それを他の客もいる酒亭でやるのだ。背景説明は手短にし、早く話の山に到達しなければならない。厄介なことに私はこういう人を相手にすることが嫌いではない。頼まれると進んで乗る悪癖がある。

「養父が死ぬと秋成は家業を継ぎ、家事使用人のたまを妻にします。しかし家財をすべて失い、しかも左目を失明します。でも食うために医術を学び医者になります。しかし子供の治療に失敗し死なせてしまいました」「ほう」。相手は退屈がらず逆に関心を深めた。連れの奥さんも同じだ。夫婦の脇にいる一人客も聞き耳を立てている。私は調子に乗った。

「秋成は妻に『こういう境遇を不遇というんだ。避けずに二人で生きていこう』と放浪の旅に出ます。といっても、京都の中をあちこち転居したのです」。ようやく話の山のふもとまで来た。私は酒杯を何杯も口に運びつつ、自分のペースに乗った。

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