表現は文化に拘束される。このことを自覚していないと、上手な表現はできない。一般論として自分の姿は自分では見えないものであるが、日本人の表現についても同じことが言える。

渡部昇一氏の表現論における大きな業績は、日本人の表現の文化拘束性を明らかにしたことだ。渡部氏は、言葉の短縮化に日本語の特徴があると指摘する。〈表現に関して言えば、言葉の短縮化、つまり「多弁を要せず」ということです。これは情を表現する詩を例にとっても、短歌の三十一文字よりは、俳句の十七文字と、詩の形が短いほうへと進んでいったことにも表われています。これは世界的に見ても例がないといっていいでしょう。/そしてこの短詩形志向は、伝達不要、論理構成不要という伝統とも相まって、日本の和歌や俳句は何よりも「理」を嫌うようになったのです。つまり理屈が通っていることや、論理的構成がはっきりしていることが好きになれなかったり、逆に軽蔑してしまうといった志向が一般化していったと言えるのです。〉(渡部昇一『知的人生のための考え方』PHP新書、2017年、172ページ)

このような言葉の短縮化は21世紀の現在、LINEに代表されるSNSで端的に表れている。体言止めの多用、絵文字の使用などは、言葉の短縮化の現代的傾向だ。

渡部氏は、柿本人麻呂の作と伝えられる『万葉集』巻第十三の長歌の冒頭を取り上げ、こう説明する。〈葦原の瑞穂の国は/神ながら 言挙げせぬ国/というのがあります。この日本の国は「言挙げせぬ国」という発想は、日本は何しろ先祖代々神の国で、神様はこっちのことなどお察しですから、あまり口にしてわいわい議論するのは愚かなことだということです。/そして、この「多弁を要せず」からだんだん「多弁嫌い」へと、日本人の思考や感情は移行していったようです。現在、日本人が国際会議などに出席しても発言が少ないとか、発言が下手だと言われることがありますが、それは単に語学が苦手だというだけでなく、こういった伝統的な発想にも理由があると言えるでしょう。〉(172~173ページ)

「言挙げをしない」ということは、無言の中で相手が何を考えているか忖度(そんたく)せよということだ。職場でも、上司や同僚の気持ちを忖度することなくして仕事は円滑に進まない。ただし、このような忖度は、文化的文脈を異にする国際社会では通用しない。渡部氏はこのことをよくわかっているので、以下のように述べるのだ。〈ただ、国際交渉の多い時代には、外国人相手で沈黙することはきわめて不利です。主張すべきことは、はっきりと、しかも巧妙に、さらに執拗に主張し続けないといけません。外国人相手の時は、言霊の通じない世界にいるのだと考えなければならないでしょう。昭和史前半の悲劇の多くは、日本側に「真実はいずれ分かる」という気持ちが強すぎて、十分な表現、十分な宣伝、十分な言語的交渉を怠ったことにあると考えます。〉(173ページ)

真実は、きちんと言語化して伝えなければ、相手は理解しないというのが外交や国際ビジネスでの常識だ。さらに渡部氏は、日本語における大和言葉と漢語の差異について論ずる。まずは大和言葉だ。〈故郷を懐かしむ時の、多分、日本で一番有名な歌である「故郷」を見てみましょう。兎追いし かの山/小鮒釣りし かの川/夢は今もめぐりて/忘れがたき故郷(作詞:高野辰之/作曲:岡野貞一)/この歌は三番まで続きますが、すべて大和言葉だけで構成されています。実は大和言葉の歌詞は、なぜか柔らかい感じ、現代風に言えばフォーク調であることが多いのです。故郷に抱かれる柔らかさ、母の懐に帰る胎児のような気持ちを表わすのにぴったりなのです。〉(204ページ)

渡部氏の指摘のとおりだ。J・POPSや演歌にも大和言葉の歌詞が多いのは、柔らかい雰囲気で日本人の心を揺さぶるからだ。

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