表現法で重要なのは、技法だけではない。著者の誠実さも重要である。官僚はその時々の政府の方針に従って、異なる内容の文章を書く。評論家でも、時の政権にすり寄った文章を書く人、あるいはつねに特定の政党の立場を反映した議論を展開する人がいる。この種のポジショントークを文章化したものでは読者の心に響かないことを、渡部昇一氏はよく理解している。それだから、「ホンネに忠実」である必要を強調する。

〈アメリカの代表的な心理学者マズローの考えには、私はアメリカ在住時代から大きな影響を与えられましたが、彼の言葉に、

「どうすべきか迷っている時は、ホンネに忠実であれ」

というものがあります。これは私が物を書く時の指針ともなっています。専門分野の書籍は別として、一般向けの書籍で自分の意見を述べようとする時は、どうしてもあっちのことを考え、こっちのことを考えと、いろいろ迷うことが出てきます。私はそういう時には、私のホンネがどうかを第一にするようにしたのです。

この言葉で思い出すのが、シェークスピア(一五六四~一六一六年)が『ハムレット』の中で、老侍従長ポローニアスに語らせた次の言葉です。

「最後に、最も大切なる訓(おしえ)……己に対して忠実なれ、さすれば夜の昼に継ぐが如く、他人に対しても忠実ならん」(坪内逍遥訳)

これは、人生の智恵の塊のような役回りの老侍従長がもろもろの教訓を並べ立てた後、そういったものよりも何よりも大切なのが、「己に対して忠実なれ」ということだと言っている場面の言葉です。〉(渡部昇一『知的人生のための考え方』PHP新書、2017年、93~94ページ)

己に対して忠実な人は、発話主体の誠実性を確保することができる。もっとも人生のさまざまな局面やビジネス上の駆け引きにおいて、本当のことをすべて語ることはできないし、そんなことをすれば、まともな大人として扱ってもらえない。ただし、本当のことを言わないというのと、積極的にウソをつくのとはまったく異なる。積極的に虚偽を事実のごとく書く人は、表現者として失格だ。

渡部氏は、己に対して忠実であることを良心に結び付けて考える。

〈この「己に対して忠実なれ」ということは、簡単に言えば、「良心に恥じないようにせよ」ということでしょう。

この姿勢が実は、知的生活においても大切なのです。というより、知的なものを得ていく上で欠かせない態度なのです。〉(前掲書94ページ)

渡部氏はカトリックのキリスト教徒だ。キリスト教は人間の良心に対しては懐疑的だ。良心的だと自らを誇っている人は、増長しているだけで決して良心的ではない。キリスト教的に良心的であるとは、神の前で悔い改めることができることだ。渡部氏の良心にも悔い改め、平たい言葉に言い直すと反省の要素がある。

渡部氏は、外国語教育との文脈で良心的態度について説明する。

〈私は学生を教えたり、その昔は家庭教師などで子供を教えてきた経験から、絶対だという法則があります。それは、分かっていないのに分かったふりをする子供や、あてずっぽうで答える子、ごまかしたりズルをする子は、必ずそこで進歩が止まるということです。

特に私の場合は語学が専門なので、それがよく分かるのです。英語は単語の意味がある程度分かっていれば、じっくりと文脈を追わなくても、あてずっぽうで「こんな意味だろう」ということができます。しかしそのような取り組み方では、たとえどんなにやさしい英文でも意味の解釈が微妙に違っていて、正確ではないのです。やはり、文脈を入念に追う生徒だけが、ちゃんとした理解に至ることができるのです。

ですから、試験などで、問題を少し工夫すると、あてずっぽうの生徒は間違えてしまい、きちんとしている生徒だけが答えが合っているということになるのです。この取り組み方の差は、一、二年すると、歴然たる差となって現われてきます。だから分からないのに分かったふりをしたり、知識吸収に対してズルをしてはいけないと彼らに言い聞かせるわけです。〉(前掲書94~95ページ)

筆者が外務省の研修指導官をしていたとき、プライドが高すぎて、自分の理解が不十分であることを認められない若手外交官は、ロシア語を十分に習得することができなかった。現在、筆者は複数の大学で教鞭を執っているが、知ったかぶりをする学生は学力が伸びない。それに対して、反省的機能を備えた学生は、半年程度集中的に学習することで、学部の専門課程を十分に習得することができる。頭の良しあしよりも、知に対して誠実に向き合うか否かで、結果が著しく異なってくる。

渡部氏も教育現場での経験から、筆者と同じ認識を持ったようだ。

〈英語に「知的正直(インテレクチュアル・オネスティ)」という言葉があります。簡単に言えば、分からないのに分かったふりをするな、ということです。

もちろん、本当に分かったつもりでいたのに、間違いだったということはあります。それはあてずっぽうの間違いとは違いますから、そういう間違いなら、間違いに気づくたびに確実に進歩します。しかし端(はた)から見ていたのでは、あてずっぽうで間違えたのか、本当にそうだと確信しながら間違えたのかは区別がつきません。その区別がつくのは、自分だけです。だからこそ、「己に対して忠実なれ」というシェークスピアの忠告が生きてくるのです。〉(前掲書95ページ)

本当にわかったつもりであっても間違えることがある。そういうときは、どこで間違えたかをつかむことができるので、矯正も比較的容易だ。しかし、あてずっぽうの場合は、間違えた原因がわからないので矯正不能になる。

渡部氏は、他人から過ちを指摘された場合の対応についてこう述べる。

〈私も、先述したように、いくつもの一般向けの書籍をそのような姿勢で出していますが、内容に関して博学の方から間違いのご指摘があった場合は、いま一度自分で考え直してから、それでもやはり指摘されたように間違いであると判断したならば、いつでも修正する正直さは持っているつもりです。

この知的正直という姿勢は、知に対する姿勢として、絶対に守らなければならないことなのです。〉(前掲書95~96ページ)

表現に間違いは付きものだ。間違いを指摘された場合には、それを認める素直さが必要だ。

プラス会員(有料)にお申し込みいただくと
下記のサービスがご利用いただけます。
  • 『週刊東洋経済』のすべての記事がWebで読み放題
  • 『週刊東洋経済』が毎号届く
  • 『会社四季報 業界地図』のコンテンツが閲覧できる

    ※一部のコンテンツは無料会員記事でも閲覧が可能です。

  • 東洋経済主催セミナー無料ご招待
プラスの視点 アクセスランキング バックナンバー一覧 TOP